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高橋ていいち さんの思い出を語りあう会

国際文化会館サイン

「高橋てい一さんの思い出を語りあう会」(てい:青へんに光)

場所:国際文化会館
日時:2016年6月30日 14:00〜18:00

第一工房を半世紀以上牽引された建築家、高橋てい一さんの思い出を語りあう会に先週、事務所OBとして伊原洋光・伊原みどりで参加してきました.

高橋さんは所員に「高橋さんと呼ぶように!」とおっしゃっていましたので、当BLOG記載もそのようにさせていただきます.
また当日は他の建築家の大先生と言われるような方にも多数ご参加いただきましたが、敬称を「さん」とさせていただき、高橋さんと親しくされていたご関係に免じてお許しいただけますと幸いです.

国際文化会館

当日、予報では天候が心配されましたが、自他ともに認める「晴れ男」の高橋さんが雨雲を押しのけたようにも感じました.

会場は、麻布十番の駅から港区鳥居坂をのぼった先の国際文化会館(1952年設立).
設計は、建築家の前川国男、坂倉準三、吉村順三、3巨匠によるものです.
1956年に日本建築学会賞、後にDOCOMOMO100選にも選ばれています.
1975年に新館も建設されましたが、後に財政事情の悪化から2004年には取り壊し計画も発表されました.
これを機に多方面から保存を要望する声が挙がり、日本建築学会の建物保存活用の特別委員会の提案協力などを得て改修・耐震工事が実施され、50年以上の時代の変化に対応した保存再生を2006年 見事に実現し竣工を迎えた建築です.

恥ずかしながら私は今回の高橋さんの会で、こうした特別な建築内部に初めて立ち入ることに・・

高橋ていいちさんの思い出を語りあう会

高橋さんの訃報から約4ヶ月.
ご親族のご希望で、「お別れ会・偲ぶ会」のようなやや寂しいイメージの会にするよりも、高橋さんと親しかった方々が自由に楽しい思い出を語りあう場にしたいとのことで会の名称は「高橋てい一さんの思い出を語りあう会」となっています.
建築家のご友人はじめ、設計でお世話になったクライアントの方、建築関連でご一緒してきた方など、平日にも関わらず都合350名以上の方がご参加下さいました.

高橋ていいちさん

生前高橋さんご本人が「切っても切れない特別な親友」とおっしゃっていた内田祥哉さん(東京大学名誉教授)のご挨拶、 池田武邦さん(元 日本設計代表)の乾杯ご発声により4時間の語りあう会はじまりました.

阪田誠造さん(元 坂倉建築研究所代表)など永年のご親友の方からのお言葉の数々.

高橋さんが親しくされた多くの構造家、斎藤公男さん・和田章さん・川口衞さんからもそれぞれのエピソードをいただきながら・・
やはり高橋さんの「オレは坪井(善勝)研出身だからな」という決め台詞も聞こえてきました.

高橋ていいちさんの思い出を語りあう会

建築家ADHの木下庸子さん・渡辺真理さん、建築メディア研究所の大森晃彦さんの司会進行で、その都度、様々な方へのお声掛けをしていただきながら時間は流れます.

中盤は、建築家の新井千秋さんや手塚貴晴+手塚由比さん、小泉雅生さんら数名でのデスカッション. 高橋さんが80歳代でサッカーA-CUPにプレーヤーとして参加された時のことや、高橋さんが審査員をされた建物のこと、展覧会イベント時のエピソードなど.

その後、第一工房の大先輩方(林昭男さん・針生承一さん・陶器二三雄さんら)からの当時のエピソードをお聞きする場面があったり、そのほかアメリカより デイナ・バントロックさん(UCバークレー校教授)が第一工房で働いた当時のことを振り返るビデオメッセージのご紹介も.

会の終了間際には、建築家の槙文彦さん、小倉善明さん、内藤廣さん、建築史家の藤森照信さんといった豪華な顔ぶれで高橋さんに関係する「思い出」メッセージを締めくくっていただきました.
長時間の会も無事終えることができました.

 

個人的には、著名な方々からのお言葉の他、設計を担当したプロジェクト関係者と久しぶりにお会い出来たことが特に有難かったです.

第一工房で手掛けた最後の公共建築となりました「白河市立図書館」では、鈴木市長さんはじめ建設部ご担当の方々、各社工事現場担当の皆さんと、当時を振り返るとともに その後の市民利用の様子など、お話が聞けました.
プロポーザルコンペの審査をして下さった北川原温先生からも、コンペ時のこと、竣工後に図書館をご案内させていただいた時のことなど、お言葉をいただくタイミングもありました.
また第一工房最後の竣工引渡し物件として担当させていただきました、中部大学ご関係者も多数名古屋からお運び下さいまして一時を過ごすことが出来ました.

皆様に深く感謝申し上げます.

 

国際文化会館 入口

会場の展示パネルなど、関係者で片付け・撤収を行い、第一工房のOBメンバーで2次会場へ.
こうした会がなければ、国内の他県遠隔地や、中国から帰国されて駆けつけられた第一工房の先輩方とお会い出来る機会も滅多にありません.

 

高橋さんのお陰で、お世話になった多くの方と再会出来たのだなぁと.
どうもありがとうございました.

 

事務所の整理に追われていた昨年頃にはあまり感じなかったのですが、最近になってふと高橋さんのいろいろなことを思い出したりします.
以前からどういう訳か私は、高橋さんより
「お前には いろいろなことを話してやったから、特別授業料をもらっても良いくらいだなー」
と笑って言われることがありました.

戦前の中国の青島時代、高橋さんの幼少期のこと.
明治大学非常勤講師時代、堀口捨己先生とのやりとり、篠田桃紅さんの若い頃の話.
村野藤吾、前川国男といった建築設計の巨匠と言われる方々が高橋さんに直接言われた、ちょっとしたひと言エピソード.
海外旅行先での出来事、建物の在り方・見方、外には言えない女性の話題などなど.

ちなみに、多くの方にとって「高橋さん」=「第一工房」というイメージだと思いますが、事務所名「第一工房」を最初に考え出されたのは、実は高橋さんではなかった(らしい)ことはほとんど外部の方には知られていません(OBでもご存じない方が多いと思いますが).

日頃、事務所で高橋さんのお部屋に呼ばれ、プロジェクトのディテール等でお叱りを受けたことも、あるいは全然建築と関係ない世間話をいろいろとお聞きしたりしたことも、とにかく毎日の、日常のワンシーンでした.
また、ご自宅に家族3人(娘と共に)お邪魔させていただいたことも今となっては良い想い出です.

高橋さんは、港区南青山の骨董通り付近で車を停めるコインパーキングが見つからないと事務所のすぐ下のバス停脇などに車をお停めになり出勤されます. そして私に車の鍵を渡し「ハコ(駐車スペース)を探して入れておいてくれ!」というのが私の入所間もない頃から頻繁にありました.
なぜか、他のスタッフは車係にはほとんどなっていませんでしたので、おそらく高橋さんの愛車マツダのRX-7を運転させられた回数は最多だと思います.
後輩がなかなか採用されずに、ボトムポジションで下っ端雑用係を続けた年数も、第一工房で調べますとどうやら過去最長でした.
そうしたこともあってか、高橋さんの新しい免震アイデアのプロジェクトのお手伝いを入所直後から9年がかり、ずっと担当だったりしました.
同乗が危険だと業界でも評判だったあの助手席を指定席のようにしてあちこち打合せにご一緒し、噂通りスリルもたっぷり味わいました.
助手席利用数も、過去55年間の第一工房スタッフでは最多ではないかと思います.
鞄持ち的なサポートくらいしか使い道がなかったからも知れませんが、とにかくご一緒する機会が他の先輩方よりも多かったと感じます.

個人的な16年半を振り返りますと、これらの経験は高橋さんからいただいた、特別な財産です.
晩年、高橋さんは「オーラルヒストリー」という言葉を口にすることが何度かありました.
ひょっとして私の下手な文章でも、お聞きしたことを忘れないうちに簡単にでもどこかにメモを残すことに意味があるのかなぁと・・思ってみたり.

 

高橋ていいちさんの思い出を語りあう会 ドローイング

最後「語りあう会」に参加された方へは、内田祥哉さんの書かれた文章と、高橋さんの手書きドローイング1989年(新潟の別荘地にあるセンターハウス:Teizan-so)、高橋さんご家族からのメッセージが手渡されました.

以前 新建築へ掲載された追悼文は、実は雑誌編集意向で残念ながら一部が掲載出来なかったそうです. 今回の会のおかげで、内田先生オリジナルのテキスト「高橋てい一さんのこと」が皆さんの手元に残ることとなりました.

 

 

 

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2016-07-06 | Posted in blog, diary |